024 阪神大震災(1995)

阪神大震災の話
平成7年1月16日の早朝から父は会社の旅行で奄美大島へ旅行のためいなかった。

1月17日の早朝大きな物音がしたような気がして目を覚ますと直ぐに地震と分かった。震度4程度の地震かと思ったとたん大きな揺れが来た。それは今までに体験した事のない凄い揺れだった。
2段重ねの食器棚もタンスも根こそぎ倒れ、俺はベットから落とされそうになった。祖母は俺の部屋に寝ている。テレビは祖母の頭の横にあったがテレビは祖母の足元に落ちた。テレビの落ちた方向からして揺れは南北の横揺れだったろうと思っていたが数日後テレビを見られた時にはTVでは時計回りに丸く揺れたといっている。
俺の部屋はそんなに被害はなかった。台から落ちた物はテレビとミニコンポと去年の11月に買ったスキャナーが落ちた。テレビとミニコンは大丈夫だろうけどスキャナーは壊れたかも。
母の部屋はタンスや仏壇がいつもなら父が寝ている所に倒れて来たそうだ。父がいたら大怪我をしていたかも知れない。
今では笑い話しだけど母は始め、仏壇の灰や鉢植えの砂などがかかったため誰かが(泥棒)悪さをしているのかと思い「なんすっとー」と叫んだそうだ。その後、柱につかまり立とうとしたが柱に振り放されそうになるくらい揺れた。
姉の部屋はベットの横に衣装掛けその奥にタンスがありその二つともベッドの方に倒れて来て間に挟まれた姉は出られなくなったが怪我はなかった。揺れが治まると母がみんなの無事を確かめるため名前を呼ぶ。姉は「出られーん」といったが真っ暗だし何が何だか分からない。何とか母が姉の部屋に行ったが中にも入れない有り様。姉は自力でどうにか出て来た。
それから避難をしようと俺を毛布でくるみ母が俺を抱えて外に出たが外は寒く避難所は遠い。体に力のない俺を抱え避難するのは冷静に考えると無理である。俺の寝ている格好はパンツにズボンに肌着一枚。これを毛布でくるんでもきれいにくるめないので寒くて震えた。
俺が重くて進めないでいるとあんまり見た事ない近所のおじさんが「車に乗せてあげましょうか」といってくれて自分の車を持って来て乗せてくれた。おじさんが実家を見に行きたいというので、姉が母にどうするか聞きに行った。口が動かないくらい冷えきっていたがおじさんに「ラジオ」というとおじさんは直にラジオをおこした。その時姉と母は玄関に置いてあった電動車椅子をいつも5段の階段があるので板を置いて降ろすのだがこの時はそのまま階段をゴトゴトと降ろした。電動車は壊れていないだろうか。それどころではないがちょっと心配。
その後、姉が戻って来て家族がバラバラになると分からなくなるという事で車から降りた。幸い5階建ての住宅は外見は傾いてもなくひびもなさそうである。回りの10階以上の建物は傾いたりしている。車から降りて電動車で避難所に行こうとしたが避難所の学校も寒いのでもうあんな大きな余震はないだろうし家には布団も沢山あるので仕方なく家に戻った。
まだラジオで死者を聞く前に5階の赤ちゃんがタンスの下敷きになり死んでしまった事を聞いた。
ベットに寝るとベットが固い。エアベットが停電のためゴムの板になっていた。その上ベットも冷えきっている。母が3年前祖父が生きていた時使っていた使い捨てカイロが幾つか残っていたはずと探して見つけた。カチカチに固まっていたがなんとか暖かくなりそれを背中や胸などにあて布団やコートなど何枚も着た。この時風邪をひかなかったのは奇跡に近い。そのくらい冷えていた。
30分くらいするとやっと温もったが風は冷たい。玄関が開かなくなったらいけないので開けたままにしてある。ストーブもあったが外がガス臭かったので火は使えない。今度は地震よりも火事が恐ろしくなった。ちょっと離れたマンションでは火が上がっている。
一息つくと母が台所の片付けをしようといった。「誰も片付けてくれんとだけん」ということで母と姉は靴を履き片付け始めた。数万円するもらい物の水差しなんかもすべて割れてしまった。残ったのはお椀だけ。流しの下の油も戸が開き外に出てこぼれている。台所は俺は見てないが凄い事になっている。カメラにフイルムが入っていたら写真に撮って父に見せたいねといっていた。片付けをしていると父から電話がかかって来た。ガス、水、電気が止まっているのにNTT凄いぞ。
父はニュースを見て驚き電話をかけて来たのだ。俺が父に「お父さんおらんで良かったよ。おったら死んどったよ」というと父は心筋梗塞で死ぬという意味と思ったらしい。父は今日は飛行機が出るか分からないというがこちらのニュースでは関空は大丈夫といってたと教えると予定は12時ころということだった。みんな怪我がないと分かると電話を切った。この時7:30くらいだっただろうか。時計は壊れなかったけど見る余裕がなくよく時間が分からない。台所の片付けがあらまし終わると母の部屋と姉の部屋の片付けが始まった。母は散らかっているのが嫌いで掃除が趣味のように好きなので早く元の状態にしたいらしい。掃除機が使えないので奇麗にはならないがほぼ終わると昼飯。昼飯はパンを4人で分けて食べた。こんな時は少し食べただけで腹にたまる。幸運にも冷蔵庫は倒れなかったので牛乳などの飲み物はあった。そういえばパソコンの台も倒れなかった。冷蔵庫もパソコンの台も小さなタイヤが付いているので動いて倒れなかったのだろうか。
とりあえずラジオを聞いていたがどんどん増える死者の数に驚くばかり。途中からVHFのTVを聞けるのでTVの方を聞くと高速道路が倒れている事や火事が多い事、火事がどちらの方向に広がっているのか等の情報が聞けた。我が家の幸運をこの時実感した。
しかし近くの商店街等の火事の煙が来るのが恐ろしい。消防車なんかは来ない。

13:00頃、父から関空に付いたと電話があった。その後電話は通じなくなった。
そして18:00頃になっても父が帰って来ないので心配になり父が携帯電話を置いて行ったのを思いだし毎月両親が会社の人達と山登りに行っていて、その山登りの名簿を見て大阪の人に電話をするが誰も出ない。大阪の人も避難したのだろうか。大阪の震度はどの位だったのだろう。未だに分からない。仕方ないので懐中電気の明かりで又パンを4人で食べた。

22:00を過ぎても父が帰って来ないので少しは眠ろうといい、玄関ももう閉めていいだろうと玄関を閉め鍵も掛けて眠る事にした。しかし余震が1時間に数度くるので眠れはしない。この余震が恐怖を蘇えさせる。
最初「ゴォーーーー」という地鳴りがしてそれから一呼吸してガタガタ揺れだす。
地鳴りの音は例えるなら映画とかに出てくる雪崩や氷山の崩れる音といえば分かるだろうか。最初の大地震の時は眠っていたのでこの音は聞いてない。

23:00ちかくなった頃だったか父が帰って来た。父の話しだと大阪の十三(じゅうそう)まで会社のマイクロバスに乗って帰ったがそこまで7時間かかったという。それから会社の友達の自転車を借りて我が家まで2時間半かけて帰って来たと聞いた。関空から十三までは詳しくは分からないが普通なら1時間くらいしかかからないだろう。神戸に入る車が進まず考えられない渋滞だったらしい。帰りの自転車では崩れた家や燃えてる家の所を通って帰って来たため電話で無事を確認したが心配で仕方なかったという。
父が「起きとってやるけん眠れ」というけど余震で眠れない。余震初体験の父は「地震!」と驚いていたが俺達が「なーんこのくらい」とかいったりして。父も余震の音には驚いていた。

平成7年1月18日この夜はみんな1時間位は眠っただろうか。夜が明けると父は熊本の親戚やこちらの知り合い等に携帯で電話をし始めた。この携帯は熊本には出来ないかと思っていたが出来たのか。知らんかった。NTTの電話も掛けられるようになったが混雑して駄目だった。携帯が熊本に繋がると熊本ではTVの死亡者の名前の中に俺達の名前が出ないかと心配で見ていたそうだ。TV局などにFAXを入れたりしたがこちらには電話もFAXも通じなかったいう。その後こちらの父のお客さんなどに生存の電話を掛けまくる父。そして自伝車を借りた友達に水がないのでなんとかして持って来てくれないかと電話をする。
父がストーブを出せというので母がストーブを出す。今まではファンヒーターだったけど電気がないので使えない。
水が止まると気付きストーブで鍋に貯めた水を湧かす。その後冷蔵庫にすき焼きをしようと買ってあったのを出してストーブですき焼きを作って食べた二日ぶりの暖かい食事だった。
父の友達の奥さんが近所の人達とおにぎりを握って持って来てくれた。この時一緒に来てくれたもう一人の会社の人が「家は一人暮らしだから自分は実家に行ってるからしばらく大阪に来たら」といってくれた。その前に父のお客さんも二人、家においでといってくださった所があり3軒になった。ここで何処にお世話になるか迷うところである。この夜いろいろ話し合った。俺が我慢出来るならみんな我慢するということになり判断は俺に任されてしまった。
回りの店は壊れ物を買う事も出来ないし寝てても体は痛いし何時までか分からない我慢は出来ないので大阪に行こうと決断した。
この日は救急車などがゆっくり通る。2号線も43号線も通行止めで家の直北の狭い道しか通れず異常な混雑だ。救急車の赤い回るライトが暗い部屋に差し込むと炎が映っているみたいで気持ち悪い。

1月19日大阪に避難すると決まったので、1日は淀川区加島のお客さんの家に泊めてもらう事にした。最初に会社の人の家に行こうと電話をしたが片付けが終わらないので2.3日待って欲しいといわれて困ってしまい、加島に1日お世話になり次の日に片付けを手伝いそちらに移ろうという計画になった。そう決まると荷作りに取り掛かる。パソコンを持って行くか行かないか大分迷ったが1ヶ月位は帰ってこれないというので文豪で我慢しようかと思ったがやはり持って行く事にした。しかし家族5人の荷物を軽ワゴンには乗り切れないので最初に俺達と詰めるだけの荷物を運びその後、父が戻って来て残りの荷物を詰めてくるという。2度目は戻って来れないかもしれないので1度目に大事な物を詰み2度目にパソコンや炊事道具等を詰む事になった。
荷作りが終わった19:00頃MCさんから電話があった。この時MCさんに大阪に避難する事等をいい、パソコンを使えなかった時の連絡のためMCさんの電話番号を聞いた。心配して電話をしてくれる友達はいないので嬉しかった。

19:30頃に加島に向かい家を出た。家から数百メートル進むのに1時間半もかかってしまった。俺は車に横になって乗っているので空と電柱しか見えない。普通なら車で5分のところをこの日は2時間もかかってしまった。
母達は道路のひびや裂け目を見て驚いていた。家の崩れているのが幾つもあった俺は見てない芦屋まで来るとようやくゆっくりだが車は流れるようになり3時間かけて目的地に到着した。
早々家に上がらせてもらった。この時父が俺を抱えて長い距離を歩いたためこの日から体調をくずした。
にぎり寿司をとってあって「よく来たね」と暖かく迎えてくれた。話しはやはり地震の話しが中心だ。父が「もう1度神戸に荷物を取りに行って来ます」というと「もう止めとき」と止められたが「息子のパソコンを取ってこないといけないもので」という父。おいおい俺のせいにするなよ。「みねおさん、どうしてもいるか」おばさんに聞かれて「他にもいろいろあるんですよ」と俺がいうと「いいわけしてない」とつっこまれてしまった(^_^;)
父と姉はちょっと行って来ますと出て行った。
祖母、母、俺の3人は風呂に入れさせてもらい父達を待たずに寝た。エアマットを持って来たのでいつもの寝心地。電気はやっぱいいなぁ。

1月20日朝起きると父達は神戸から往復3時間半で帰って来たと話しを聞く。朝食を頂くと両親は西淀川区大和田の会社の人のマンションの掃除に出かけた。俺達は朝食の後今までの疲れからかまた寝てしまった。両親が大和田に行くと父の友達と会社の人で掃除を済ませてあった。そこで友達に何かいわれたらしく変な顔して戻って来た。
それが原因で1月23日に父が爆発する事になる。夕方大和田に移る。それで10日ほどここを借りる事になった。

1月23日祖母、父、姉が同じ症状の熱のある風邪をひいた。この日三人とも近くの病院に行き薬をもらって来た。父が病院に行ってる間に父の友達が来て父を待つ。父が帰って来ると父は友達を怒り出した。地震、避難、そしてこの間の掃除の出来事など今までにないストレスで一気に爆発してしまった。その人は父のそんなに怒るのをあまり見た事ないので驚いていたようだった。お世話になっているので普段いえる事がいえないのが原因だろうと思う。

1月25日父は、今まで黙っていたが心筋梗塞になった時のような痛みがするというので母がタクシーで国立の循環器センターに連れて行くと数回発作を起こしている事が分かり緊急入院した。検査の結果心臓は大丈夫で精密検査で何もなかったら2月7日くらいに退院らしい。

1月29日今度は塚本のお客さんが賃貸マンションを持っているのでそこにおいでといってくださったのでこちらに移った。ここなら気兼ねせずにいれる。

2月3日やっと電話が付き通信が出来た。いろんな人に助けられ無事に過ごしていました。大阪もたまに揺れるので恐い。鼓動が早くなる。

平成7年3月19日
ようやく神戸の家に電気、水道、ガスが戻り家に戻ることが出来た。

023  025

コメント

このブログの人気の投稿

043 誕生日(2021)

039 気管切開(2017)

030 「有名人誕生日辞典」(2003)