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007 入院生活(1977)

9月からは二学期。初めての養護学校。 普通の学校では体育はほとんど見学&応援。プールの時はプールに浸かっていた。 養護学校の体育は車椅子でもできる。卓球みたいなヤツや、野球盤みたいなルールの野球など結構楽しかった。 授業は普通。昼食はいったん病棟に帰る。13時からはまた学校で授業。 午前10時頃、30分間ほどリハビリのため授業を抜ける。 そんな生活を中卒まで続ける。学校生活はこんな風。 また病棟での生活話に戻る。外泊はほぼ二週に一度の土日。と夏休み、冬休み、春休み。学期の休みは二週間帰られたりした。 病院に入院してから一年ほどは外泊するときはウキウキだけど病院に戻り親との別れの時は号泣するのが続いた。別れの時泣かなくなるのに一年かかるのだから筋金入りの甘えん坊なのはよくわかるよね。 そういえば入院してから一年間ほどは、外食してから病棟へ行ってたのだけどその度に食べたものを戻してた。食べ過ぎとか車に酔ったのだろうと言っていたけど、今思えばストレスだったと思う。昭和52年頃はまだストレスという言葉は一般にはなかった。 これまで食べ過ぎで戻すことも車に酔うこともなかったのでストレスに間違いない。 その一年以降も外泊から病院へ戻る時間が近づくとため息の数が増えていた。 明るいみねおくんは、病棟のみんなと友達になった。 小さい時からいろんな人と話していたおかげで少し話せばその人がどんな話が好きなのかすぐに分かる。そうやってみねおくんの話し好きは磨かれていった。それと同時に誕生日が近づくと「2月16日はぼくの誕生日」というのを会話の中にどうどうと入れておく。 それも年がだいぶん離れた友達に。嗅覚でくれそうな人にしか言ってないのでほとんどの友達がプレゼントをくれた。 母に誰と誰からプレゼントをもらったかを報告してお返しをしてもらう。 プレゼントをあげたい友達もいるから用意してもらったりもしていた。 中には看護婦さんもプレゼントをくれる人もいた。なんせ可愛いからね(^_^) 倒産後なのにお返しとか大変だったかなと今は思う。 倒産後も着る服とかはデパートで買ったりしてたので、子持ちの看護婦さんとかみねおちゃんのおふるちょうだいという人もいた。何度も言うなんせ可愛いからね(^_^) でもこの頃は自分の可愛さには全然気づいていなくて色々