021 危機(1991)

平成3年秋頃、むせる事が多くなったり、飲み込みが悪く感じたり、夏バテのような感じにもなったりで体調を崩した。

平成4年1月7日 もうすぐ23歳
しばらく入院するつもりで甲南病院に行くが今から思えばこの時血液ガス検査をしていたら早めに入院していたかも知れない。この時も息苦しさがあったが薬を貰い帰った。

平成4年1月7日以降
その後殆ど食事が喉を通らなくなり水分も噎せてあまり飲めなくなった。尿の色も黒くなり普通の状態では無くなった。一番近い病院から点滴をしに来て貰った。尿の検査をして甲南病院あたりにいかれてはと勧められたが何処の病院もしばらくようすを見て下さい。なのでいつまで様子を見るのかと思ってしまう。今思うのだが病気が筋ジスなだけに敬遠されたのかもしれない。この頃からいつも左向きに寝ていたのが左向きだと息が出来ないようになってきていた。しかし上向きも右向きも首や肩が痛く1時間も向いて寝れない。

平成4年1月19日もう顔色も紫になってきた。特に耳の色は悪くなっていた。この頃は苦しさで殆ど眠れなくなっていた。入院出来る病院も探せばあっただろうが10年の病院生活をして少し病院嫌いにもなっていたせいもある。

平成4年1月21日
夜中苦しさが限度を超えた。息をしてもしても間に合わない。もう「今夜こせそうにない」といった。それで救急車を呼び甲南病院に行く救急処置室でアンビューで空気を吸わせる処置がされ病室が決まるまで救急病室にて酸素吸入をしていた。酸素吸入をするが少し楽になる程度でしかなかった。今度は即入院となった。レントゲン等の検査が終わり4階の病室に移された。後で聞いた話だがその年に入れたばかりの新しい人工呼吸器をして貰う。思った以上にカテーテルの気管内挿管はきつかったこれで随分楽になったが度々痰がカテーテルに詰まるので吸引をしなくてはいけない。入院した日から2週間点滴を24時間打ちっ放しで、もちろん食事は無し。

平成4年1月2?日
点滴をするが尿の出が悪く体中浮腫んだのには驚いた。何故なら殆ど目が開かず瞬きが出来なかったからだ。この日尿の出がよくなったが体に溜まった余分な水分を出そうと体がしているらしく30分おきに200㏄ずつして何と2000㏄以上もしてしまった。蓄尿の袋に入り切らなくなるようになった。

平成4年1月2?日
カテーテルが詰まり顔色が変わり急変。しかし自分では苦しいのが分からなかった。周りだけが慌てていて自分ではまだ余裕が感じられたが、感覚が麻痺していたのかも知れない。

平成4年1月2?日
主治医に両親が呼ばれてこれからの方針などの話があった。気管切開をした方が本人も楽と思いますので・・・という話だったそうだが両親が息子は筋ジスの病院に入院して何でも知ってますので息子と話してください。息子も大人ですので自分で判断します。という話だったそうだ。

平成4年2月5日
ようやく流動食が出来るようになり腹にたまる感触が味わえるようになった。たしかこの日から点滴も随分減ったと思う。

平成4年3月あたりから自主的に呼吸器を外す練習を始めた。
いきなり2時間外して自発呼吸をしてみた。
できるじゃないかと思ったら翌日、胸全体が筋肉痛。
三日ほど自発呼吸はお休みして、5分呼吸器を外すところから再会。
毎日少しずつ時間を延ばす計画。
俺はこの時やりたい事ができていた。
パソコン。やっと家庭用が出始めた頃。
俺はこの呼吸器を外して退院し、お金を貯めてパソコンを買う。
競馬とテレビゲームしかやってない。絶対退院していろんな事するんだと思った。
誰も呼吸器を外せる事はできないと思っていた。
なんせ2月の誕生日の時は死にそうで看護婦さん達が夜景が見えるロビーまで連れて行ってくれた。
なんとなくこれが最後かもしれないと思われているのが伝わってくる。
でもこの3月からの練習は何でも適当な頑張りだったのが初めての本気で頑張った。

平成4年5月18日
呼吸器を外す練習を始めていたのでもっと優れた呼吸器を使って練習して見ませんかという話になり新しい呼吸器を使うために設備の整った東3階に移った。4階の看護婦さん達もやっと慣れてきた時期に移るのには不安があった。

平成4年6月
朝から晩まで自発呼吸ができるようになりカテーテル脱管。心配されていた痰も抜いたと同時に止まった。

平成4年7月2日
その後、順調に呼吸が出来るので甲南病院を退院。

挿管してた死にそうだった筋ジスの子が脱管できて退院したとちょっとした有名人になっていた。

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